ラテンの血に

基本的にコミュニケーションのクラスは結構自由に話をするのですが、今日の内容はとても興味深かった(という表現が正しいのかわかんないですが)です。

 

今日は一人のメキシコ人の男性の最終日でした。

なんと彼は数枚のスライドを作ってきており、これまでの経過、思いをまとめ、先生に対する感謝などを英語で語り続けたのです。特に強制とかではなく、もちろん自主的につくってきていました。かれらは言語的に英語に近い言語を母語としているので基本的には英語での会話が得意なことが多いのですが、それでも15分にわたりずっとしゃべっていたのには驚きました。

さらに、彼には同じクラスに彼女がいるのですが、その彼女にも感謝の言葉などなどを語り続けました。クラスの反応もまた違っていて、特にメキシコ系の学生は泣いてましたし、イタリア系の先生も泣いてました。日本人はあんまり泣いている人はおらず、このあたりも文化の違いが感じられました。

ベースとして日本人を含めた東アジア系の人たちは感情を隠すのが得意であり、また個人的には医師をしてきて、人が死んでもプロとして悲しんでいる場合ではないですし、悲しみなどの感情をコントロールすることがうまくなりすぎて妙に冷静な自分が恥ずかしく感じました。表現は難しいのですが、こんな風に自由に自分の感情を表出できることって素晴らしいと思う反面、日本ではなかなか一般的でない部分であり、その環境で育ってきた私が同じこと、同じ反応ができるようになるかといわれると正直難しいように思いました。数日前、彼は「なぜアジア人は感情を出さないんだ?好かれているか、嫌われてるかわかんねーじゃん!」っていってました。感情をコントロールして、かたやその隠された感情をくみ取ってコミュニケーションを続けるというのは見方によれば成熟した文化なのかもしれませんが確かに窮屈ですね。

 英語ができるようになってきて(いるのかはわかりませんが、すくなくともクラスは上のクラスになりました)、英語を学ぶ人の集団から、英語で自分を表現する集団に入ってきており、いろいろな文化の違いをより感じるようになったように思います。楽しいと思う反面、やはりラテン系の彼らが議論の主導権を握ることが多く、もっと頑張らないとと思う一日でした。

 

・生徒は先生の写し鏡のようなものだ reflection

・先生はいつも座って一目で誰の気分が落ち込んでいるか、だれにいいことがあったかすぐにわかる

・カウンセラーではなく、リスナー

 

あ、家で初めて餃子が出ました。うれしい。